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213.あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません
それは大きな報いをもたらすものなのです
(へブル人への手紙 10の35)
自分のしていることに確信をもっているならば、毎日は平安であり、どんな悩みや苦しみがやってきても大丈夫なのです。この確信が、自分が神から受け入れてもらっているとの信仰にもとづくものであれば、文句のないところです。
しかし、私たちの日々の生活の中には、かなりの不誠実なものが存在していて、神がついていてくださるといった確信の土台を揺るがしてしまうことがあるのです。
自分の失敗とか罪とかを言い訳にしてしまう傾向が人間にはあるのです。ひどい場合はそれを社会や他人のせいにしてしまいます。こんなことをしていると確信はなかなか戻ってきません。それは罪と手を組んだことになるからです。
やはり、私たちは自分に厳しくなければならないのです。神に対して恥じない生活は確信の土台ですが、そのためには、自分の罪をいさぎよく認めることです。神に向かって正しくなかったことを悔い改める素直さこそ求めなければならないものです。
どのような世の中の保証よりも、神が私と共にいてくださるという確信の方が強いことを知っているでしょうか。
214.あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように
(エペソ人への手紙 3の16)
聖書には、内なる人、そとなる人という表現が出てきます。これはつまり、本音の人、建前の人と考えてもよいのです。
日本では、本音と建前を上手に使い分ける人が世渡りのうまい人ということになっています。このことでその人が、信用のできない人物、よくわからぬ人といった評価を受けることも事実です。外国で日本人の評価が悪い理由は、主としてこの辺にあります。
さて、他人のことはさておき、本人自身のことを考えるとき、本音を出せない人はすべてに自信がなく、勝利がないともいえるのです。自分の本音がより多く通用するほど、自分の人生に確信が生まれ、喜びがあるものです。
そのようになるためには、人の顔色をうかがう生活をしていては駄目なのです。自分自身の生き方に不動の確信をもち、神と人の前に恥じない生きざまのできる人になるべきなのです。
それは神を信じる信仰生活、聖書にもとづく信仰生活の中にあるのです。そして、本音の部分で生きることができるように強めてもらうことを神に求めるべきなのです。自分の本音を殺して、人の顔色ばかりうかがって、建前だけで生きるのでは、サーカスのピエロと同じです。
215.あなたがたが私を選んだのではありません
私があなたがたを選び、あなたがたを任命したのです
(ヨハネの福音書 15の16)
人が生きてゆく上で、心の中にもつことができる一番大きな確信はなんでしょうか。人生の途中で出会う試練の中で迷ってしまったり、絶望してしまうのはなぜでしょう。それは、自分の人生は自分自身のものだから、自由自在に、好き勝手にしたらよいのだと考えているからです。
人生をみつめる見方には二つあって、一つは人生は自分のものであるという見方、いま一つは人生は神に選ばれて生きるのだという見方です。自分の選んだ道で、その責任をとるのは当然のことです。困ったときだけ神様神様と救いを求めるのは、あなたが神を選ぶ行為であって、この場合、神はあなたの利益のための奴隷になってしまいます。神は絶対者ですから、人からとやかく命令される存在ではないのです。
聖書は、神があなたを選んで、任命したと言っているのです。この意識の上で生活すれば、人生は神から何らかの目的があって選ばれていて、その目的追求のために生きるべきだということや、自分にだけしかできない任命もあることがわかり、自分は価値がないから死にたいなどとはけっして思わなくなります。
目標のない人生は浮草のようなものです。神から与えられた使命を目標として生きるとき、今までと違った人生になります。
216.あなたがたは、真理に従うことによって、魂を清め、
偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい
(ペテロの手紙 第1 1の22)
神の真理に従うことによって、魂を潔めましょう。魂の潔めは必要なことです。自分で反省してみればわかることですが、実に汚れた魂をもっているとは思いませんか。
自己中心、自己愛、虚栄心、ねたみ、不道徳など数えあげれば際限がありません。もちろん、こんなことには平気で毎日を送ってしまう無神経な人もあることでしょう。が、多くの人は、多少なりとも、自分の魂の中で苦悩の戦いをしているのです。
実に心の潔めほど難しいものは他にありません。
私たちは自分の中に巣食っている不純な邪念、妄想をどれだけがんばって取り除くことをしても駄目なのですが、自分の思いを別のものに転化することによって、古いものを追い出すことができるのです。
心の中に信じるものをもつとき、人は必ずそのことに夢中になるものです。神の子イエス・キリストを信じて、自分の心の潔めを求めるとき、イエスの十字架の血による罪の潔めを経験できるのです。神の愛にふれると、新しい価値観によって人々に対する愛が生まれ、新しいものが自分の中を支配することを知るのです。あなたも新しい自己を発見してみませんか。
217.圧倒的な勝利者となるのです
(ローマ人への手紙 8の37)
人生をこわごわ生きている人が多すぎるようです。そういった人々は、成功している人は特別な才能があるからだときめつけて、自分なりに納得しているのです。こうした人の人生は、自分がこうであると考えている以上に展開することはありません。
人生は、その人が自分の可能性をどのように信じているかということで、すべては決定するのです。聖書には、あなたの信じるようになる、とあるのです。
信じるということは、力をこめて努力して信じていくということよりも、もっと自然であって、自分の中で当然そのようになると考えられることがすなわち、信じていることになっているのです。
人生の勝利者になる条件は、まず、自分の可能性は他人と比べて劣ることはないと信じることにあります。誰にでも成功する可能性があるのだと思いこんでください。自分は駄目だと自分に言わないことです。
その次に大切なことは、全能者である神を信じることです。全能の神が助けてくださると信じ、信仰をもって神に助けを求め、祈る生活をすることです。こうすると単なる人生の勝利だけではなくて、圧倒的勝利への道が開けてくるのです。
218.神に知られているのに ―
(ガラテヤ人への手紙 4の9)
聖書は日本で毎年、隠れたベストセラーになっているといいます。それは売られているだけではなく、学校、病院などに無料配布しているものもあるからで、事実、聖書ほど人々の手に多く渡っている本は他にありません。加えて、日本のクリスチャンは学ぶことが好きで、よく聖書を研究しているので、神について知っている人の数は相当のものだと思われます。
しかし、ここにある神の言をみるとき、神に知られているとあるのです。つまり、神について知っていることは、神に知られていることとはまったく別のことであると気づきべきなのです。
たとえば、あなたがテレビに出る有名人についてどれほどくわしく知っていても、彼はあなたについて全然知らないでしょう。神についても同様で、自分が信じていると思い、自分は神について知っていると思っていても、それが神の力を引き出す信仰になっているとはけっしていえません。
多くの人が信仰をもっているのに神の力が働かない理由は、ここにあるのです。神に知られていることが、根本的に必要なことであって、それでこそ本当の信仰生活の喜びを満喫できるのです。
神の前に徹底的な罪の悔い改めがなされているかどうか、イエス・キリストの十字架の死と甦りを、心で信じているかどうか、日々の生活の中でキリストを救主と告白しているかどうか、これらは神に知られているという確信の土台となるものなのです。
219.私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです
(ピリピ人への手紙 4の13)
たいして自慢できるものをもっていなくても、自分で強がってみたがるのが人間の習性のようです。
しかし、自分に自慢できる健康があるとすれば、それは生んで育ててくれた親に感謝するべきでしょう。世の中には、体を鍛えてみたくても、肉体がそれに耐えられない人もいるのです。自分が健康なのを自慢するのなら、それは親に助けられて自慢していることになるのです。
このように考えれば、妻も、子供も、教育も、友人も、それに生まれた環境ですら、今ある自分の可能性を支えている大きな柱となっていることを認めることができるでしょう。
しかし「どんなことでもできる」となると話が難しくなります。私たちをとりまく条件の中に、完全であって万能なものは存在しないのです。もし、それがあるとすれば、宇宙を支配する唯一の神しかないのです。
目に見えるものによって、自分の生活が励まされ強められているのではなくて、目に見えない神の力を信じて強められている場合は、それをもたない人の経験できない別の強さをもっているといえるのです。
金銭に励まされていると、金の切れ目は縁の切れ目とやらで、それで終わりなのです。しかし、あらゆる状況変化と関係なしに、神に対する信仰で励まされていると、人間の可能性は驚くほど大きくなるものなのです。
220.神は真実な方ですから、
あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせることはなさいません
(コリント人への手紙 第1 10の13)
人生から試練を避けることはできません。悩みとか、苦しみを全然感じない人がいるとしたら、その人は人間ではありません。
たとえ、どのように賢い人も、愚かな人も悩んでいるし、困難に出会っているのです。
今、あなたが悩んでいて、人生の試練のただ中にいると思っているならば、次のように考えてください。すなわち、あなたの試練は、すでにどこかで、誰かが同じものを経験しているのだということです。
しかも、それらのことを人々は乗り越えてきたのです。
それは人は何につけ信じるものをもっていると強くなるもので試練に耐えられるのです。「女は弱し、されど母は強し」の諺どおり、弱い女が、子供をもつと強くなるのは、子供という信じる対象ができたからです。
この信じる対象として最高のものは神であることはいうまでもありません。
キリスト信仰の歴史は殉教者たちの血でたどることのできる歴史ですが、これは神を信じる人々の心の強さの証明なのです。
素直な心で神を信じて、その喜びの中に生きていると、想像できないほどの活力が湧いてきて、神が耐える力をくださることがわかるだけではなく、耐えられない試練をあらかじめ防いでくださることがわかります。これを人生の恵みと表現できるのです。
221.あなたの信じたとおりになるように
(マタイの福音書 8の13)
人生は自分の信じているとおりにしかならぬものです。ですから、自分が何をどのように信じているかということは非常に大切なことです。何事によらず、自分はそれができると本気で信じ込んでいる人は、そのとおりに実現してくるし、自分はできないと信じていれば成就してこないのは当然の原理なのです。人生のさまざまな出来事を、他人のせいにしたり社会の原因にしたりすることは、まったく的はずれだということです。
人生が自分の信じたとおりに展開してくるとなると、自分の人生を良くするのも、悪くするのも自分次第ということになって、生きていく心構えの大事なことが理解できるでしょう。
私たちの生活は、人と人との交流が主体であるのはいうまでもありませんが、その中でたびたび失望を味わっているのが現実です。そして、人を信じてだまされたといったことが、心の中の信じる力をいちじるしく弱めてしまうのです。
しかし、神を信仰して、神を信じることを第一に生活していると、神は絶対に間違いがないので、私たちは失望されることがありません。かえって内面の信じる力は強化されます。このことが、人生で信じて事をやりぬくときの大きな原動力であることを理解できる人は幸いです。
人生はまさしく、あなたの信じたとおりに展開してくるのです。あなたの人生に実現できる数多くの良きことを、まず信じることができるように神に求めようではありませんか。
222.あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、
私の口からあなたを吐き出そう
(ヨハネの黙示録 3の16)
寒い冬の日に、なまぬるい風呂に入った経験があるでしょうか。つまり、入ったものの出るに出られない困った状態のことです。
このごろは、このぬるま湯の状態の人間が多くなりました。子供たちに何が食べたいか、と聞いてみても、「さあ別に・・・」という返事ですし、青年に「将来の目標は何ですか」と聞いても、感動する答えが返ってきません。自分の夢を語りはじめると、興奮してくるという人に出会いません。
なまぬるい状態の継続の中からは輝かしい人生が出てくるはずがありません。そこにあるのは惰性に流される無気力な人間だけなのです。どうして、このようなことになったのかというと、子供のときの育てられ方に原因があるのです。何から何まで一方的に与えられ、甘やかされた生活の中で、行動することを忘れてしまった結果です。
神の言は、このような、なまぬるい者は、口から吐き出すとさえいわれているのです。神から存在価値を認められない人生ほど悲しいものは他にありません。
熱く燃える人生、これこそ価値ある人生なのです。そのためには、金、金と追われるのではなく、精神的なものの中に、大きな目標設定をして大胆に挑戦してみることです。そして、何事も、自分の頭で考えてみて、とりかかることがポイントです。
223.信じる者には、どんなことでもできるのです
(マルコの福音書 9の23)
信念は岩をも貫くといわれており、信じることは大変な力があるのだということは知られています。
たとえば、母親の腕の中の赤ん坊は、無邪気に信じきっているのですが、赤ん坊は母親からすべての恵みを受けているのです。この同じ赤ん坊が、母親の留守に姉さんの腕に抱かれたりすると、姉さんが母親と同じことをしてくれるという保証はありません。姉さんは自分の遊びに忙しくて、ミルクを飲ますのを忘れてしまうかも知れないのです。つまりこの場合、誰を信じて抱かれるかということが問題になるのです。したがって、信じる心があるのなら、何を信じても同じだという考え方は正しくないのです。
ある人は、金の力を信じています。それを信じればある程度のことは可能でしょう。しかし、金の力で愛情は買えないことに気づけば、その力は知れたものです。
ある人は、自分の力を信じています。しかし、それは人間としての能力を出ることはできません。私たちは、自分で自分をもち上げることすらできないのです。
また、ある人は石の偶像を信じます。偶像に自分の願いのすべてを託すことはできても、それが人の手により刻まれたものである限り、全能の力とは無縁なものです。
人が全能の創造主である神を信じるときのみ、信じる者にはどんなことでもできるという言が成就するのです。あなたが全能の神を信じて祈り始めるとき、神を信じただけのメリットは必ず現れるものです。
224.義人は信仰によって生きる
(ローマ人への手紙 1の17)
神を信じることは難しいと多くの人は言います。よくわからないとも言います。しかし、わかったのでは、信じるのではなく、知ったということになります。信じるということは、わからないけど事実として受け入れることなのです。私たちは、毎日の生活の中で、家族との関わり合いや、友人とのそれの中で、無意識で信じ合っているからこそ生きてゆけるのです。
聖書に出てくるパウロほどの人であっても、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ人への手紙7の15)と言っているのです。
本当の信仰は、天地創造主である神と一つになることを求める心なのです。私たちが信じる心を人間中心に動かしているとき、そこには、あらゆる失望が待ちかまえているのです。失望の穴に落ち込んで、こんどは、「誰も、何もかも信じられない」とつぶやき始めるのです。
私たちは、本当に信じる価値のあるものを信じてみて、信じる力の偉大さを経験してみる必要があると思います。神の力を引き出すためには信仰以外に方法がないのです。信仰生活とは、信じる力の働きを経験する場だと思うのです。ですから信じているのに何も起こらないということはけっしてないのであって、強く信じるほど、それに比例して、神の力は私たちの中に働くことは当然のことです。
225.人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです
(コリント人への手紙 第1 8の3)
どんなことにも負けない精神力の強さは、神に知られているという不思議な自信の中から生まれてくるのです。
人に知られるということは、それが、何も悪事によって知られるということでなくて、単純に有名になることを示していても、当人にとっては不自由なことがかなりあるものです。
町に出て、やたらにジロジロ見つめられるのも嫌なことだし、精神的自由をかなり奪われるものなのです。
それに、人に知られると、やたらにくだらぬことを頼まれるし、貴重な時間を強奪されるのもたまりません。それに絶えず好奇心と批判の目にさらされるということもあるし、自分から人に知られることなど求めない方が利口な生き方です。
しかし、神に知られることだけは、誰もが求めるべきことなのです。
神に知られているという心の中の安心感は、人生の何事に出会っても、人の目には隠されているが驚くべき自信となるのです。
また、神に知られていることは、心の安全弁なのです。すべての基準である神は、私たちの心が正しくあるために助けを与えてくださるのです。神の目の前に恥ずかしくない生き方こそ、人の道なのです。神に知られるためには、神を愛し信じる以外に方法はないのです。
226.その人は、水路のそばに植わった木のようだ
時が来ると実がなり、その葉は枯れない その人は、何をしても栄える
(詩篇 1の3)
何をしても栄える、との神の約束は、あまりに調子がよすぎて話にならないと考える人が多いと思います。しかし、神の言葉に嘘があってはなりませんから、神がそのように語られる理由がそこにはあるはずです。
聖書はその理由を、水路のそばに植わった木のようであると表現しているのです。一年中流れの涸れることのない水路のそばに植えられている木は、真夏のひでりのときもその根は深く水路の中に伸びているので、その葉も枯れることがなく、時に応じて実もなるのです。水路とは信仰の流れのことです。
人を生かすものは内面に働く霊の力です。失望が心を支配しているのならば、働く気も起こらないし、夢も消えてしまいます。私たちの人生が人を頼りにし、物質的なものをよりどころにしている場合、そこには絶望的な事態が起こる可能性は避けられません。
聖書の中に登場する話の中で、サマリヤの井戸のそばでイエスに出会った女の記事がありますが、彼女は自分の幸福を男性との出会いの中に求めていたのです。不幸にして五人の男性との出会いの中にもそれを見いだせなかったのです。
すなわち、彼女の男性遍歴というものは、彼女の心を豊かにする喜びの原因にはならずに、失望があるのです。イエスは神を信じるという、不動の確信を心の中にまずもたない限り、いつもいつも万事がうまくゆくはずがないことを示しておられるのです。
227.からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」といえば移るのです
(マタイの福音書 17の20)
信じる力の恐ろしさを知っているでしょうか。
”信念は岩をも貫く”というのは古くからの諺ですが、信じる力の偉大さを人生に用いないのは愚かなことです。信じる力は、それ自体、日々の生活の中で働かすことができます。
事業をしている場合でも、信じる力は武器であるといえます。人を疑って、信じることなしに協力できるはずがありません。
誰でも信じる力なしに日常生活は成立しないのです。家庭生活から商売まで、すべてが信じる力が土台になって作用しているのです。
この信じる力を最大限に発揮するためには、何よりも、神を信じるとこなのです。
神こそ、信じる力の根本であり、信仰は、信じる力の集約なのです。
でも、別に偉大な信仰者にならないといけないと、肩に力を入れる必要はありません。
聖書は”からし種ほどの信仰”と言うのです。これは小さい大きいの問題ではなくて、”生きている信仰”の意味なのです。
”神様、感謝します”と素直にいえる信仰は生きているのです。そして、その信仰は偉大なことを成就する力をもっているのです。
228.祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい そうすれば、そのとおりになります
(マルコの福音書 11の24)
答えは姿を現す以前に約束されているのです。
どんなことでも、心の中に信じていることが現れてくるというのは真理なのです。
つまり言葉を換えてみると、心の中で信じたことしか実現化しないということです。
自分の周囲に起こるすべての出来事を分析してみてください。確かにその通りになっているのです。
あなたが心の中で誰かを憎いと思っていると、必ずその人はその通りの反応を示してくるものです。
人々は、自分の心で信じていることを出し合っているのです。
そこで、信仰は、自分の心の中に願っていることを信じて、固定させる力をもっているといえるのです。
そして、信じることができたとき、それは実現に向かって動き出すのです。
神に祈るとき、神の力の助けによって、自分は不可能だと感じていることも、できると信じることが可能になって、やがて、それはその通りになるのです。
信仰をもつことは、強力な味方をもつことになります。今日も祈って新しい確信をつかむことができるわけです。
229.自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです
(コリント人への手紙 第2 10の12)
受験は人生での大事なことであることは間違いないことですが、本人も親も、そこに最善がなされたならば、結果の如何を問わず、力強く前進してほしいものです。
試験の結果によって将来に対して悲観したり失望したりする必要はないということです。日常生活でしばしば行われる推論というのは気をつけなくてはいけません。それは、たとえば、私は大学の入試に失敗した、だからエリートになれない、したがってよい会社に就職できない、だから出世できないし、私の生涯は駄目である・・・このように考えを進めるのは危険なのです。
これは、自分のことだけではなく、他人のことまで勝手に推論する馬鹿者がいます。すなわち、あの子供の親は離婚した、だから不幸なものだ、育ての親とはうまくいかぬものだ、あの子の一生みじめなものだ ー といった具合です。こんな推論をして自分の心を満足させている人々は、必ず自分は欲求不満の奴隷となっているのです。
信仰というものは、くだらぬ推論を完全に打ち破る力なのです。不幸の連鎖反応をたちまちにして止めてしまうのがキリスト信仰です。自分のことを棚に上げて他人の不幸を推論しているような人は、必ず自分の上にそれがふりかかってくるもので、「人をのろわば穴二つ」と昔の人が言う通りです。
230.あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい
(コロサイ人への手紙 3の2)
江戸時代の小咄に、ある男が生きた鯉を抱えて大川橋の上に来かかったところが、鯉がはねて川の中に逃げられてしまったのです。途方にくれていると桶をかついだ水屋がやって来て、これがとんだ侠気のある男で、事情を聞いて大いに同情して、それなら、わしが鯉を取り戻してやるといって、どうするかと思うと、滝だ滝だといって桶の水をざあざあ川に流したということです。
この男は、鯉の滝のぼりのことを考えていたのでしょう。鯉がのぼる滝とは、昔の「古今集」などに読まれている滝のことで、今でいう急流のことだそうです。鯉が華厳の滝をのぼることはなくても、急流をさかのぼるのは勇ましくてよいことで、そこから五月の節句には鯉のぼりを立てて祝うのでしょう。
それにしても、このごろの悪い時代の流れに身をまかせて、何でも嘘を言って、その上、知らぬ存ぜぬで通り抜けられる風潮が多いのは嫌なものです。
正直者が損をするような時代は滅びの前兆です。確かに世界は滅亡に向かって急速に進んでいるのです。私たちは、神の裁きから守られるために信仰により心の武装をすべきです。”上にあるものを求めなさい”と聖書は語ります。鯉のように悪の流れに逆らって泳ぐだけの力を神から授かりましょう。
231.主よ、あなたは、私たちのために平安を備えておられます
(イザヤ書 26の12)
平和という言葉のひびきほど美しいものは他にありません。しかし現実の世界は波乱を予想させる数多くの問題を抱えているのです。このことは、世界の情勢が不安な状態であることからしても、日本の将来も決して甘い夢に満ちたものではないことは、すべての人々が承知しているのです。
多くの豊かな物質にとりかこまれて、腹一杯食べることができて、自分勝手な議論に明け暮れしているとき、私たちは、平和にかこまれていると錯覚しているのです。これらのものは、一つの政治異変、戦争、そして個人的には病気、不和、によって、一日のうちに消え去るものなのです。
私たちが心から求めつづけるのは、このような条件の変化によって消滅する平和ではなくて、自分の周囲がどのようになっても、けっしてなくならない平和なのです。聖書の語るのもそれです。
神と平和を信仰によって保ちつづけることが何より大事なことで、信仰は、自分の状況の変化によってなくなったりするものではないのです。信仰だけは最後の最後まで残るものです。この信仰による神との平和をしっかり手にしておけば、激動の人生もなんのその、必ず乗りきることができるのです。
232.誰も、ふたりの主人に仕えることはできません
(マタイの福音書 6の24)
人はいつの時代においても、何かを信じていないと生きてゆけない存在なのです。信仰をもって生きることを古いように考えている人がいますが、とんでもない誤りです。神を信じることを笑う人は、自分自身では、神の代わりに物や金を信じているだけのことです。
コンピューターを信じてみても、これは偉大な馬鹿のようなもので、プット・インしてやらないと何一つ仕事ができないのです。コンピューターから神の知恵など出てきません。恋のコンピューター占いなども、データをたくさん入れて組み合わせているだけのことで、コンピューターから新しい知恵が生まれてきたわけではありません。
もっとも神を信じるといってみても、どんな神を信じるかということは、日本人の場合非常に注意を払うことが必要です。石や木でつくり上げたものを祭ってみても、それは物質であって、本物ではありません。天地宇宙を支配し給う、神を信じることなしに信仰はありえないのです。
まことの神を信じるところから、真実の知恵が与えられて、自分の人生を正しく導いていただくことができるのです。神中心に人生計画をたてることは、大きな成功につながるのです。
233.知恵ある者のおしえはいのちの泉 これによって、死のわなをのがれることができる
(箴言 13の14)
秋の花といえば菊の花ということになります。最近のように気候が不順になると、花も狂い咲きすることがあります。
菊の花は、秋菊の電照抑制栽培が有名です。自然の状態では、菊の盛りは夏の終わりから秋であって、寒菊はその栽培が暖かい地方に限られており、その上に一月以後に開花するところは珍しいところから、菊の少なくなる十二月から三月を目標に電照栽培が行われるのです。秋菊は日が長い春夏に咲く花と反対に、秋になって日照時間が十三時間より短くならないと花芽ができず、花がつきません。そこで温室の中で毎夜一定時間、電灯をつけてやると、菊はまだ日が長いと思って、開花の準備を遅らせるのです。
ほどよい頃をみはからって、照明を打ち切ると花芽の分化が始まり、季節はずれの時期に花を咲かせるのです。
つまり、菊はだまされながら開花するのです。だまされることは嫌なことですが、人生にも、このようなことはいくらでもあるのです。とくに自分の信じて歩んできた人生が駄目だとわかってはたまらないでしょう。教育万能、お金万能、科学万能、これらはみな幸福の約束をしますが、多くの場合は、だまし事に終わる可能性が強いのです。
聖書の知恵によって、だまされない人生を見つけましょう。
234.この世と調子を合わせてはいけません
(ローマ人への手紙 12の2)
私たちすべては、それぞれ他の人と違っているものを神から与えられているのです。
指紋一つでも同じものがないといわれているのですから、人間全体からみれば、それぞれの特徴があり、同じものではありません。
この世と調子を合わせてはいけませんと神の言が語るのは、そうすると、自己が失われてしまうからです。
人は、自分の人生を大事にしたいと口では言いながら、この世の中の風潮の中に流されてしまっているのです。それが毎日何となく面白くない理由なのです。
さて、この世と調子を合わせないで、自分の人生を勝利に導くためには、自分の人生に明確な目標をもたないといけません。
そのためには、生かされている自分はどんな使命を与えられているかという自覚が要求されるのです。
この自覚は、神を信じるとき、実に明確にされるものなのです。
こうして、神を信じて自分の人生を考えるとき、医者は儲かるから医者の道を志して進むという職業選びはしなくなります。
この仕事を神から与えられた自分の天職にしようという考え方になり、本当の自分の特性を生かして、神と社会に奉仕しようとする思いになるのです。
235.人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです
(ヤコブの手紙 1の14)
人生の失敗のすべては、何かに誘惑されてしまって、その結果がみじめなことになったのです。誰でも失敗を知って行動しているのではありません。誰でも、それなりの論理があります。
しかし、その論理は筋の通ったものではなくて、私たち自身の心の欲望の刺激によることが多いのです。心の願望に論理を無理にひっつけているだけの話です。
こうしたことを続けていると、頑固な心になり、自分自身をあざむくことになります。そうなると、いよいよ失敗の理由を自分以外に見つけて周囲を非難し始めることになるのです。こうして人格が崩れ始めるわけです。
人生を生きることは誘惑されるということですから、誘惑に出会うことは避けられないのです。しかし、失敗するとすれば、それは自分が負けたのであって、その事実をはっきりと認める勇気が必要なのです。
私たちは気高いことを求めたり、潔くなることを望んだりする心は充分にもっているのですから、恥ずかしがらずに大胆に神の前に出て助けを求めたらよいのです。信仰をもって、神の助けを求めることは、けっして恥じるべきことではなく、かえって、くだらぬ論理をひっかけて自己弁護をする方が、はるかにみじめなものです。信仰によって、神の手による心の浄化を求めましょう。
236.軍馬も勝利の頼みにはならない その大きな力も救いにならない
(詩篇 33の17)
どのような大事業も、その初めは、脳の中に起こった一つのひらめきにすぎません。しかし、それをどのように積み重ねていくか、それをどのように継続させるか、にすべてがかかっているのです。
偉大な能力に羨望の目を注いで、自分の無力を嘆くよりも、今、自分のできる小さいことに全力を投入して、それをたゆみなく推し進めていくことに心をつかっていると、やがて、偉大な能力を追い抜くことができるものなのです。
人生の勝者は、聖書の語るように、軍勢の多いことが勝利につながるとは限らぬのであって、弱いと思われる者が大勝利を手にしても、信仰の世界では不思議ではありません。
何事によらず、プラスαというものは楽しいものであって、ボーナス・シーズンに人の心がはずむのはプラスαの魅力といえるでしょう。
信仰は人生におけるプラスαであると考えてみると愉快になるでしょう。誰でも人に言わないだけで、自分の力を知っています。しかし、それに信仰によって、どれほどの力がプラスαされるか、そこに面白味があるのです。しかも、そのプラスαは無限に可能性を秘めていることを思うと、神を信じてみるのは面白い挑戦ではありませんか。
237.もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう
(マタイの福音書 6の23)
会社の経営者が、不況だから将来の見通しは暗いと言います。
勉強のできない子供をもつ親は、この子の将来が不安だと言います。
暗いとか、不安だとか、私たちの社会には、明るくない条件はいくらでもあって、人々はしきりにそれを気にしています。
それでいて、肝心の自分の心の中の暗さにはまったく感心がないのはどうしたわけでしょう。
社会を明るくする運動といったものがあって、明るい町づくりなどに励んでいるのですが、町を美しくしようといって、町内会総出で、道路や公園の清掃に精を出すのも結構ですが、それより、町民一人一人が、公道徳を高めて、ゴミを捨てない意識を徹底してもつだけで清掃する前に美しくなるのです。
一人一人の心の中が明るくなれば、人々の集まりで形成されている社会は自動的に美しくなるのです。
人は、自分の心の中の暗さに気づくべきなのです。財布に一万円しかないとイライラするのと、一万円も残っていると感じるのとは天地の差です。
人の心は、まず神に対する不信仰の罪で暗くなり、自己の犯す罪と、悩み、不安を委ねる心の不足というもので暗くなっています。
神を信じて心を明るくすることが先決です。
238.その熱心は知識に基づくものではありません
(ローマ人への手紙 10の2)
エネルギーの空回りに注意しないといけません。
日本は一応仏教を信じる国として世界に紹介されています。
だが、葬式はなるほど仏教式でしているけれども、お経の内容を知っているわけではないし、生活の中に信仰が息づいているわけでもありません。
そこで考え方によっては無宗教的であるといえるのですが、それだからといって、さまざまの新興宗教にみられるように、やたらに熱心なのが好ましいのかというと、そうではありません。
神を信じるとき、彼らのように、熱心であればよいと思うのは間違いで、プロパンガスに火がつくときのようなもので、定められたところで火になってくれないと、大爆発のように大惨事を引き起こすことになるのです。
それが、熱心が知識にもとづかないといけないという意味なのです。
神と名がつけば、その内容を問わないのは愚かな話です。はっきりとした神学体系のある、厳しい論理に絶える信仰は、聖書をもつキリスト信仰以外にないのです。
せっかく信仰に対する熱心なエネルギーがあっても、無駄にしては惜しいことです。深い知識の裏づけのある信仰に熱心になりましょう。
239.私は、真理をあかしするために生まれ、このことのために世に来たのです
真理に属する者はみな、私の声に聞きしたがいます
(ヨハネの福音書 18の37)
これは、イエスが十字架にかけられて死ぬ前にローマの役人たちとの問答の中に言われた言葉です。
罪のないのに裁かれているイエスを見て、ローマの役人が「それでは、あなたは王なのですか」と問うたのは当然でしょう。イエスはそれに対して「私が王であることは、あなたの言う通りです。私は、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです」と返事をなさっています。
王でありながら、罪人のために、否、その敵のためにさえ死に給うたお方は他にありません。
イエスは剣を用いずに勝利された唯一のお方であり、イエスの語られた神の国は地上のどの王国よりも優れているのです。そこには、争いがありません。人種の差別も、争いも、ねたみも無用のところです。
神の真理に従った者は、心の中にすでにこの神の国をもっているのです。
この地上のどれほど優秀な国家にも山積みされた問題があります。しかし、神の国は平和に支配されています。この世のあがきの中で神を信じる者には、この神の国が心の中に出現するのです。
240.キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ ―
(コロサイ人への手紙 3の16)
人の言葉でうっかりすると私たちは思想を左右されてしまいます。
他人の無責任な批判の言葉を耳にしたばかりに、初対面の人を正しく判断できなかった経験はないでしょうか。
反面、試練のとき、友人から語りかけられた一言が心の支えになったことはないでしょうか。
私たちは善意の言葉、毒をもられた悪意の言葉、ねたみを含んだ言葉、その他さまざまの意図をその中に秘めた言葉に取り囲まれて生活しているのですが、ふるいにかけることをしないで無分別に取り込むことによって、心を傷つけている場合がいくらでもあります。
しかし考えてみれば、自分をとり巻く人々の言葉で自分の運命が決定されたりしたら、大変な損失です。その意味で、害を与える言葉の嵐から身を守るべきなのです。
そこで、キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに住まわせよと命じられているのです。
あなたが神を信じているのなら、キリストの言葉はあなたの内面で最優先の立場を占めるので、必ずあなたは世の悪から守られるのです。
241.患難が忍耐を生みだし ―
(ローマ人への手紙 5の3)
誰でも苦労はいやだし、困難は避けたいものです。”私に七難八苦を与え給え”などと神に祈る人がいるとしたら、まったく変人の部類に属します。
イエス・キリストが弟子に教えられた有名な祈りの中でも”私たちを試練に合わせないでください”と祈れと教えられているのです。
だからといって、困難を避けて逃げ回るのが人生ではないのです。
主イエスは”世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝っている”と言われて、艱難と戦って勝利することをすすめておられるのです。
ですから、信仰に生きることは、他の人々の考えているような人生からの逃避ではないのです(ただし、邪教、迷信のたぐい、有難いお守り札などを頼るのは逃避になります)。
真実の信仰に生きることは、堂々たる相撲のしきりのようなもので、逃げの格好で人生の相手にぶつからないことを意味するのです。
患難という好ましくない状況に出会っても、神を信じ、祈る生活をしていると、そこでも学ぶことができるのです。人生の中で大切な学んで身につけるべき要素の一つは、忍耐です。忍耐心は、成功する人が必ずもっている一つの条件です。このように、信仰は好ましくないものの中からでも実を生むのです。
242.あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる
(箴言 3の6)
二点の最短距離は直線であると誰でも知っています。
人生は決して長すぎるものではないですから、できるならば、直線を走るように、まわり道をしないで自分なりの目的を完成したいものだと誰でも考えるのです。
でも現実の厳しさは、それをなかなか許しません。
思わぬ事故、病気、争いなど、いくらでもやむなく途中で休止したり、まわり道をしたりして手間をとられることがあります。
信仰を大切にして生きていると、朝に夕に祈ることにより日々の生活は始まります。
それだけでも自己点検ができて、あやまちを未然に防ぐことになります。
あらゆる職場で始業点検、朝礼などが行われるのは、事故を未然に防ぎ、能率的に作業をすすめるためであるのは誰でも知っているのに、自分の日々の生活の中で、これと同じことをしないのは、人生の失敗の原因ではありませんか。
行く所どこにおいても主を認めるとはこのことで、信仰をもって神に祈ることを、あらゆる場合にできる心構えは、成功する人生の近道なのです。ただ夢中で働くだけの人生はまったく意味がありません。
243.先生 私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした
でもおことば通り、網をおろしてみましょう
(ルカの福音書 5の5)
人生には、何事をやっても、全然効果がなくて駄目だったということがあるものです。
家庭の中でも、夫婦がお互いに口をききたくないといった重苦しい空気に支配されることがあります。お互いの言葉で傷つくときもあります。
一般の社会の中でも、いくら足を棒にしてセールスして回っても成果のあがらない日々が続くこともあります。朝礼でいくら激励されても気が沈んだままのときがあります。
こんなやりきれないとき、私たちはどうしたらよいのでしょうか。
信仰がなければ、すぐ酒を飲んで、と考えるでしょう。しかし、そのときは忘れても、酔いがさめればもとの状態の中にいる自分を発見するだけのことです。
だからこそ、信仰をもつのです。
そのとき部屋に閉じ込もって、イエスに語ってみるのです。”主よ、夜通し働きましたが何もとれませんでした”と。
そのとき、祈りの中に、もう一回、気を取り直して沖に出て網をおろせと神の声が聞こえてくるでしょう。その神の声に励まされて、再挑戦してみてください。助けが必ずあるものです。自分をモティベイトすることは本当は無理なことです。神を信じることが一番です。