主をほめたたえよ 落穂2007年10月
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」 (詩篇103・1)
今日の聖書のおことばです。 これは感謝の生活を意味しているのであります。自分の心に向かって、神に感謝し、神をほめたたえなさいと、言ってきかせています。作者ダビデという人の主への賛美といえるものです。
ダビデの勧めのように、神を賛美することが、果たして可能なのでしょうか。自分の生きているという全存在をかけて、「神様。ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます。」と、心の中から言うことができるでしょうか。できるのであります。
私たちは日頃、不平不満ばかりで多くの問題に取り囲まれて生活していますと、感謝することばなどは縁遠いことのように考えがちですが、決してそうではありません。 感謝をしなさいなどと言うと、きっとあなたは、「お金が無くて不自由をしているのに感謝なんかできません」と言うかも知れません。またある人は、「自分はからだの具合が悪くて健康がないのに、感謝できない」と。また、「思うように勉強もしていないし、社会で出世していない自分など感謝出来ない」と。
お金とか健康が、人生において大切なものであることは間違いありませんけれど、反面そういうものを全部持っていて、不平不満を並べ立てている人もたくさんいるのです。私たちの幸せ、幸福感というものは、持ち物の豊かさによるものではないのです。
私たち、自分のたましいが、神の恵みにより救われているかどうかということが問われるのです。すなわち、この世はすべてのものに限りがありまして、どんなに長生きをしても私たちの肉体は滅びます。しかし、たましいは永遠であります。永遠へ繋がるこのたましいが本当に神の御前に救われて、この世だけではなくて、来るべき世まで、それは永遠に至るまでつながっているのです。ですから、私たちが自分のたましいが救われているという確信の中で生活できますと、人生は非常に楽しく嬉しいものになるのであります。
もちろんそのことは、私たちが病気のままであってもよいとか、貧乏のままでもかまわないというのではありません。心の中に本当の救いをいただいて、神を喜ぶようになりますと、私たちの外側に現れた生活は自然に変えられてくるのです。どんな状況の中にあっても、現状に自分の感情が左右されず、神の祝福を信じて生活していますと、外側、つまり現状も、驚くべき変化する事実に目を留めなければならないと思うのであります。
イエス・キリストを信じる信仰。これは事実として私たちの罪の身代わりとなってくださったイエス・キリストを信じると言うことでありますが、これは私たちを外側から変えるものではなく、内側から変わってくるというものであります。
聖書に出て来るお話で、パウロという伝道者のことがあります。パウロとシラスが伝道している故に捕えられ牢に入れられ、看守により厳重に番をされていた時のことです。そんな状況でも、真夜中に二人は神様に祈りつつ賛美の歌を大きな声で歌っていました。
その時突然、大地震が起こって獄舎のとびらが全部あいたのです。看守はあわてて、どうして良いか解らずに、パウロとシラスの前にひれ伏して、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言いました。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言いました。そして救われました。(使徒16・19〜34参照)
人にはどうすることも出来ない人生の何事かが起こったとき、世の中の人々はあわてふためいてしまいます。心に救いをもっている人は平安でいることができます。
救われるというのは、全存在が救われるということであります。今まで不信仰であり、自己中心な生活をしていたことを悔い改めて心から、「わたしのたましいを救ってください」と、イエス様に叫んで、救いをいただく者になろうではありませんか。
「私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」と、神に感謝するものになりましょう。
(日本福音宣教会 全国聖会メッセージより)
