信仰によって生きる 落穂2007年7月
新約聖書、ローマ人への手紙1章17節を読んでおきましょう。
「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。“義人は信仰によって生きる。”と書いてあるとおりです。」
私達は、それぞれ自分の人生の歩みをしているわけですが、いろんな目的をもって生きていることでしょう。自分の生活の中で、心を向けられるもの、つまり期待し、望みがもてるものを生き甲斐にして、楽しみつつ生活している人もいるでしょう。財産作りや、社会的地位を求めたりが目標となっている人もいるでしょう。
そんな中で、様々な問題にも出合い、悩みの中で苦しむ人もある筈です。 自分の子供達のために期待して、それに大きな望みを抱き、子供の成長に目標を抱いて生きているとしましょう。多くは、期待していた子供に、失望させられることが多いものです。子供は子供で、自分の人生ですから、自らの目的を持って生活をしていくわけです。必ずしも親の望み通り生きてくれるとは限りません。
お金や、マイホームを持つこと、自分の仕事のことなど、目的をそんな中に見出そうとしても、しばらくの間は私達の生きがいとなる可能性はありますが、時の流れとともに事情が変わり、社会も移り変わるし、決して不動のものではありません。
誰でも歳をとり自分の寿命が少なくなっていることを意識すると、宗教的になると言われるのです。やはり行き着くところ、究極的には、自分の人生の目標を定めるとするなら、いつまでも変わらないもの、永遠のものに目標を置かなければならないということの証明ではないでしょうか。
いつまでも変わらないもの、永遠に繋がるもの、それは神以外にありません。聖書に、「天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マルコ13・31)と記されている通りです。
私達クリスチャンにとっては、イエス・キリストを信じることによって、神のために生きるという目標を持つことになるのです。 イエス・キリストを信じるということにおいて、教会では、「罪を悔い改めなさい」とか、「あなたは罪人です」とか、罪という言葉が出てくるから嫌だとよく言われます。罪に死ぬとか、罪が強調されるようです。
しかし、よく考えてみると、私達は確かに自分は正しい、義人であると言い切れる人はいないはずです。私達すべての人は、実は罪人であることを認めざるを得ないのであります。
まじめに考える人は、信仰とは自分のそうした罪と取っ組み合いをして泥んこになることだと思っています。しかし、どんなに自分の中にある不純な欲望と泥んこになって戦ってみても、そのことで潔くなれるということはありません。
聖書が私達に教えている真理は、救い主である、力あるイエス・キリストのもとにやってきて、イエス様を中心とした生き方の生活を始めたときに、罪深い自分自身から解放するのです。私達がキリストにあって生きるという積極的な信仰の歩みをするとき、自己中心的な古い私という生活から救い出されて、新しい生活に入ることができるのです。
信仰によって生きるということは、私達が今まで親しくつながりを見出すことのできなかった世界、すなわち、神との交わりに入るということです。新たな喜びといのちがあふれてくる永遠の神の命に触れるということです。古い自分の欲望、それを求めての生活、そうした自分の姿に飽き飽きして、何とか抜け出したいと日夜苦悶しているのが信仰者の本当の姿ではありませんか。
よく難行苦行とか言って、それらしい生活をしますが、そんなことで人は救われるのではありません。救いは、イエス・キリストの贖いによるものであり、それを信じる私達の信仰によるのです。神にあって新しい希望と、命に生きるというところに信仰の本当の価値を見出さなければならないのです。
「義人は信仰によって生きる」とは、そういう意味であります。 今日からの生活の中において、神を中心にして、キリストにあって生活をしてゆこうとの思いをもって第一歩を踏み出したとき、新しいいのちにあずかる生活が始まっていくのです。 (放送メッセージより)
