喜び歌います 落穂2007年6月
「主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。」詩篇92篇4節のおことばです。
このみことばは、私達を喜ばせてくださる神様。こういう意味であります。人生には喜ばしいこともあるにはあるでしょうが、悩むことが多いと言っても当たっているように思います。私は人々の生活の中に、喜びというものが少ないということを、しみじみ思うわけであります。それは何も個人だけではありません。住んでいる社会、世界をみてください。あまりにも心を痛めることが多すぎるではありませんか。悲しいことや辛いことは、いくらでもニュースに出てきます。新聞や色々な報道を見聞きしていても、心温まる微笑ましいというようなニュースは、あまり無いものです。
私達個人個人そういえるかも知れませんが、喜ばせてくれることも人生にはいくつかあるでしょう。例えば良い学校に入学できたとか、婚約あるいは結婚したとか、それから子供ができたとか、いろいろあります。しかし考えてみると、そのどれもが、その時はいいですけれど、その後がわかりません。良い学校に入ってもついて行けなくなるとか、また卒業できても絶対一生幸せとかは言えません。結婚も全部の人が幸福かといえばそうも言えず、離婚も増えています。この頃の若い娘さんたちは、結婚が必ずしも幸福になれると思っていない人も増えているそうです。また、良い就職をもとめて、たとえ得たとしても、先はどうなるかわかりません。会社が倒産した例も少なくありません。
考えてみますと、私たちが喜べることというのは人生ではあまりないように思われてなりません。でも詩篇の作者がいうように、「私たちを喜ばせてくださいましたから」と言えることは、ほんとうに素晴らしいことだとは思いませんか。だから、「私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。」と言っているのです。
神様を信じること、イエス・キリストにお従いするということは、喜びを生み出すということだというのであります。信仰をもって具体的に色々な良いことが起こりはじめた。商売もうまく行くし、家族関係、友人関係も、温かい空気が流れだしたとか、或いは人生に希望を持てるようになったとか、そういうことは拾い出したら数限りなくあるのです。しかし、それは枝葉にすぎません。まず、私たちは信仰を持つことによって、永遠のいのちに対する喜びを得て、心に平安をいだくことができます。
キリストを信じているという、この事実のゆえに、私達の日々の生活は守られて、安心でいられるのであります。たとえ何時突然死がやってきたとしても、大丈夫だという保証があるわけです。死が私達の肉体を奪ったとしても、私達の霊は亡ぼされることはありません。霊は神の御国で、主を賛美しつつ、神の御手の中に憩うことができるのです。前記のおことばのように、神様は私達を、イエス・キリストの名前において喜ばせてくださるわけであります。どのような苦しみに出合ったとしても、喜びが、キリストを信じる信仰の基本であります。
聖書に次のように記されています。
「聖徒たちよ。主をほめ歌え。
その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。」
(詩篇30・4〜5)
詩篇の作者はこのように歌いました。苦しみのゆえの涙が止まらないように思えても、必ず朝が来る、と言うのです。この所での朝とは、喜びがくるという意味であります。
このように考えてくると、イエス・キリストを信じているということそのものが喜びであることがわかるでしょう。クリスチャンは、救われるという言葉を使いますが、そのことであります。枝葉のことはあまり気にならなくなり、まして神の御名によって、天国に籍をもった私達クリスチャンであること自体が、大きな喜びそのものであります。
(放送メッセージより)
