自分を認める 落穂2007年3月
最初に聖書を開きましょう。旧約聖書詩篇90篇8節です。 「あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。」別の箇所には、神様にはなにも隠せないというようなことも書かれています。
信仰をもつということ、つまりクリスチャンになるということでありますが、それはどういうことかを考えてみます。神様の前に、自分の汚さ、不義、隠し事というものを、さらけ出している人、それがクリスチャンであります。
世の中の信仰のない世界では、自分の悪事そのものも悪いのですが、その罪を隠すという、二重に罪が重なってきます。自分の罪を隠して、人の前で良い恰好をして、何も自分には悪いことがないような顔をして生きている事は決して良いことではありません。神様の前でも率直でないということも悪いわけです。信仰なしで生きていて、平安がないのはむしろ当然だと思います。自分の心が本当に安まるところがないはずです。
教会に来ますと、「悔い改めよ」ということばを度々聞きますから、はじめての人はあまり嬉しく感じないようであります。しかし何も人前で悔い改めなさいと言われるのではなく、神の前に私達の不義と秘め事をさらけ出しなさいというのです。
神様の前に自分の醜さを正直にさらけ出しますと、いろいろな素晴らしいことが人生に起こってきます。その中のひとつは、そういうことを正直にしている人は、他人のことが気にならなくなってくるのです。 この世の中のトラブルの多くの原因は、人のことが気になるということからはじまるのです。人を意識しすぎるというか、人を悪く見たりして、すぐ批判してしまう。それは実は、私達の心の大きな負担であり、自分を苦しくしているのです。もしあなたが人にどう思われるかなど、全く気にならないで、自分の道を信仰をもって進めたら、なんと気が楽で感謝なことでしょう。
聖書の中に出てくるお話の中に、姦淫の現場を捕らえられた惨めな女が引っ張られて来た時のお話しがあります。その当時のモーセの律法では、こういう不義をした者は、石で撃ち殺せというような厳しいものでした。そこで、人々が手に石を持って、その女を、イエス様ならどうするだろうかと聞いたのです。
イエス様は、すぐ即答はなさらなかったのですが、彼等が問い続けるので、やがて彼等に向かって、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8・7)と言われました。すると今まで勢いよく彼女を訴えていた者達が、皆な黙ってしまって、石を落として誰も石を投げることが出来ず、立ち去って行ったのです。
私達が人の事を気にして、人を裁いて罰してやりたいというような高ぶった思いを持つのは、自分の心を神様の前にさらけ出していない証拠です。だから、「あなたがたの中で罪を持っていない者がいたら、その人はそうしたら良い」と、イエスが言われた時、皆な自分の心をイエス・キリストのおことばの光に照らされたのです。そして自分を見ると、自分も同じように汚い罪多き人間ではないかと気がつくのであります。
自分が罪人だと気付いたとき、たとえそこに罪人がいても、人を責めることが出来ないのです。ましてその人を裁くことができなくなったのであります。 聖書に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ロマ3・23)とあります。罪を持たない人は一人もいないのです。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(24)と続き、私達罪人の救いは、イエス・キリストを通して備えられていることを示してくれています。何と感謝ではありませんか。
まことに自分の心の汚さを神の光に照らしていただける人は幸いであります。そして汚い自分を認めて人を責めることをしないで、自らの救いを、イエス・キリストに求める者となると、正直、負担のない明るい心で、気持ちよく毎日を送ることができます。 あなたも、イエス・キリストにあって、そうなってください。 (放送メッセージより)
