神による平安   落穂2008年7月

 萬代 恒雄 

聖書の中には素晴らしい約束があることをご存知でしょうか。今日はヨハネの福音書14章27節のおことばを読みましょう。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

私達の生活の中には、何と心を騒がすことが多いことでしょう。今日も、朝の目覚めた時から、不安な、そして寂しい心で、心の騒ぐ出来事をもって、落ち着かずにいる方も多いことと思います。
何故心を騒がさわぐのか、ということをお考えになったことがありますか。それは、あなたが、どういうことの中に平安を見出しているかということに関わってきます。あなたにとって本当の平安とはどういうことでしょうか。

今日という生活の中で、拠り所とするものは一体何でしょうか。お金や物質ですか。友情とか愛情でしょうか。学歴やいい就職、あるいは社会的に立場を得ることですか。それらは素晴らしいものでありましょう。しかし、私達の人生は何がおこるか解りません。ある日そうしたものは音を立てて崩れる時がありましょう。そのようなものが土台であったとしたら泣かなければならない時がくるでしょう。

人間は八十年、長くても百年以内で人生を終えてしまいます。しかし人間のたましいは永遠に繋がっているものです。肉体が歳をとっても、たましいはいつまでも若いのです。私達のたましいは決して歳をとることがありません。聖書は次のように記しています。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(詩篇90・10)

ですから、一時的な永遠でないものに心を寄せていて、安心であるはずがないのです。「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるものとは違います。」とキリストはおっしゃったのです。

私達の回りを取り囲んでいるたくさんのものは、しばらくしたら消えてしまうものです。しかし、私達のこの短い人生において、私達が持つことのできる一番素晴らしいもの、それは天地万物を創られた、まことの神に対する信仰です。それこそが平安であります。この神の平安こそ永遠です。

神は永遠の昔から、永遠の彼方に向かって存在されるお方です。私達が自分の不信仰で自分本位だった生活を悔い改めて、神に立ち返ることは、そのまま私達が平安の中に入るということなのです。

人生にはいろいろな問題がありましょう。あなたは、そうした問題に追いまくられて、信仰なんかもつ余裕がないと、きっと言われるに違いありません。多くの人たちが、忙しいから、問題があるから、とても神様などと落ち着いて信じられないということを、あたかも当然の理由のように考えています。しかし、私はそれらが理由だとは思いません。

人生のいかなる暗い谷間の中を歩まされていても、いやその時であるからこそ、神と共にある時、平安であり、光であることを私は知っているのです。いや、私だけではありません。多くのクリスチャン達が、その事を証ししているのです。

私達が自分の心の中に平安を失う理由は、永遠へとつながっている私達のたましいに救いを感じていないからです。もし救われているとの確信があれば、平安を得られるはずだからです。聖書に次のように印されています。

「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第一ヨハネ1・7)

イエス様を信じることが、つまり光の中を歩むということであります。あなたが落ち着かず、本当の安心をもたない生活をしているだけでは、それに対する回答は永遠に見つけることはできないでしょう。

今、しばらく心を静めて、自分の今までの我がままな生活を離れて、聖書の導きを求め、まことの神のもとに返りたいとお考えになりませんか。そうして、あなたが不信仰から離れた時に、あなたは本当の平安の中にとらえられている事に気がつくためです。心を騒がせず、恐れず、神の平安をいただく者となりましょう。
(放送メッセージより)

 

日本福音宣教会は正統なプロテスタント信仰に基づく超教派のキリスト教伝道団体です。