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イエス・キリストの聖名によってごあいさつ申し上げます。
いかがお過ごしでしょうか。
まず聖書のお言葉をお送りしたします。旧約聖書エレミヤ第6章14節に、

彼らはわたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、「平安だ、平安だ。」と言っている。

この聖書のおことばを読んでおりまして、今日の社会の姿をそのまま現しているような気持ちがするのは私だけではないと思います。「平和だ、平和だ」と言っていますが、実際はひとつも平和ではなくて私たちの心の中には多くの不安があります。本当に社会は騒然としてまいりました。何でもない私達の日常の生活の中に、ある意味での苦しさ、あるいはわびしさ、厳しさ、そんなものが押し寄せて来たような気持ちがいたします。そして、平和でもないのに「平和だ、平和だ」と言わなければならないような、偽善めいた思想が私達の周りをとりまいているような気持ちがするのです。ちょうど直っていないのに「直っている、直っている」と言うようなもので、これは大変なことだと思うのです。

その理由のひとつは、本物でないものが横行しているということだろうと思うのです。

お医者さんでいえば偽者の医者のようなものです。また、私腹を肥やすところの多くの悪い人たちのようなものです。そういう偽者が横行する時代になっているということは、この世の中全体が悪に満ち、罪に満ちているということの証拠であります。このことはまあ仕方がないとあきらめる人も多いわけですが、人の心まで変えることはできないからです。

しかし、もうひとつそういうものが横行する理由があります。それは私達自分自身が自分の心をしっかり管理しておかないとつけ入れられてしまうということがあるわけです。人々が自分の病巣、悪の根源、罪の根源、そいういうものに触れられるのを好まないからであります。

しかしながら、本当に仮に病を病んでいるとするならば、その人は徹底的な治療を求めると思うのです。仮にあなたが癌だと言われて手術台に上ったといたしましょう。そのあなたの癌を手術をしてくださる医者に向かって、「まあ適当にやってくれ、半分ぐらいとっておいてくれ」などとは決して言わないと思うのであります。医者もそうですが、患者であるあなたは「どうぞ癌の病巣を徹底的に取り除いてくれ」…必ずこう要求するはずだと思うのであります。なぜならば、それをいい加減に放っておいてはまた転移をして、やがて命を失うということになりかねないからであります。

信仰というもの…こうしてあなたにイエス・キリストに対する「信仰」というものをお伝えしていますが、それは私達の生活にどのような力をもっているのでしょうか。信仰というのは、人の心の真実を現すところのものであります。

私達が商売上いろいろな人との間の取引において、だましたとかだまされたとか言うようなことがよくあるわけですが、神様相手の取引、これは信仰ですが、この中には神様の側には不正はなく、また不真実なものはなく、偽りは全然ないわけです。神様というお方は完全なお方であって、間違いがないのです。彼のなさることには絶対にスキがないのです。

「人はうわべを見るが、神は人の心の中を見る。」 とおっしゃったのです。 (Tサムエル16:7)

こういうふうに聖書は言っているのであります。 そこで、私達がこういう偽物の多い時代、また私自身も何かしら生ぬるいお湯に浸かっているような状態、こういう中において、真実に徹底的に私達のたましいに平安を求めたいと思うならば、それは私達が、神様に対して真実な正直な心で立ち向かうということ以外に方法はないのであります。なぜならばイエス・キリストはおっしゃいました。

「わたしが与える平安は、この世が与えるものとは違う。」(ヨハネ14:27)

お金やあるいは人の地位や名誉や、そういうようなものによって保たれているところの安心というものは、いつ崩れてしまうかわかりません。健康を誇りに誇っている人でも、もう明日のことはわからないわけであります。ですから、私達が真実な平安を求めたいと思うならば、神様によって心の中を全く新しくつくりかえていただく以外に方法がありません。すなわち、価値観の転換であります。

お金がなければ平和でないと思っている人の心が神を見い出だし、神に心をきよめられ、たましいを救われるということが、まず平和であるということの基本である、このことがわかるならば、彼はきっとあまりお金持ちでなくても、ある意味でひとつの基礎、平和の基礎を握ったということができるでしょう。

神様に自分を明け渡して、そして自分の心の中に、神の御前にいつでも出られるという、このきよい心、安心こそ本当の平和の基礎であります。あなたはこうした平和をお持ちでしょうか。この日からイエス・キリストの御前に出て、本当の安心をつかんで、喜びをもって日を送ろうではありませんか。